いのちの始まりは、いつなのか?「Grief Unseen」2

流産・死産等を経験し、そのことを深く考えていくと、「いのちのはじまりは、いつなのか」という疑問にぶつかる・・・。

アメリカのアートセラピスト、ローラ・セフィルの「Grief Unseen Healing Pregnancy Loss through the Artをご紹介する記事のパート2です。
今回は、この重いクエスチョンについて、考えていきたいと思います。

Grief Unseen」

[Grief Unseen]については、こちらの記事をどうぞ

 

◆◆ いのちの始まりについての、異なる見解 ◆◆

 

いのちのはじまりは、いつなのでしょう。
人生の始まりは、いつなのでしょう。

そして、いのちが人間となるのは、いつなのでしょうか。

あなたは、どのように考えますか?

 

「Grief Unseen」の第2章で、ローラ・セフィルは、このように疑問を読者に投げかけましたが、しかし、結論は出しません。

結局、どう考えるかは、人それぞれなのだと。

 

ただ、親は、胎内のいのちに対して「胎芽」などという医学用語を使うことはない、という指摘は、なるほどそうだと思わせられました。

両親が「胎芽」「胎児」などという言い方をすることは、めったにありません。常に「赤ちゃん」です。
両親は、すでに内的な愛着関係を育んでいるのです。(「Grief Unseen」p,28からの意訳)


親にとっては、妊娠に気づいたときから、大事な赤ちゃん。
医学的にどう扱われるかに関わりなく、人格を持った存在として、親子の愛着関係が育まれているのですね。

 

この場合、いのちはすでに始まっているし、当然、親は赤ちゃんを人間として見ていることになります。

 

◆◆ 流産の受け止め方は、人それぞれ ◆◆

 

けれども、次に著者が述べているのは、やや心をざわつかせる指摘です。

それは、いのちをどう考えるかが違うように、流産・死産をどう受け取るかも、人それぞれなのだという事実・・・。

著者は冷静に次のような指摘をします。

喪失とは何かという問いに、簡便な答えはありません。それぞれの信念を土台にした途方もなく多くの反応があります。
ある家族にとっては、流産は細胞に関することでしかありません。しかし、他の家族にとっては、流産したのは最愛の子どもで、すでに名前も付けているかもしれないのです。(「Grief Unseen」p,29からの意訳)

また、

重要な知見として言えるのは、妊娠ロスは必ずしも葛藤的な出来事ではないということです。すべては状況と解釈によるのです。
妊娠を望んでいない場合の初期流産は、むしろよかったこととして受け止められる場合があります。また、夫婦に生殖能力がある証拠だと受け止められる場合もあるのです。 (「Grief Unseen」p,30からの意訳)

というKluger-Bellの見解を紹介しています。

私は、これを読んで、けっこう、心に嫌な波が立ったのですが・・・あなたはどうお感じになられたでしょうか?

 

◆◆ 同じだと思い込むことの危険性 ◆◆

 

さて、ここから先は、私の考えなんですが、

つまり、流産等を経験しても、その反応は人によって異なるということですね。

悲しいこととは受け止めない人もいるなんて、赤ちゃんを亡くした悲しみを痛烈に経験した人間にとっては、認めがたいことだけど・・・でも、心に留めておくべきことだと思います。

 

赤ちゃんを亡くした「天使ママ」たちが集うお話会や、ウェブサイトが心の支えになっている方は、きっと大勢おられることでしょう。
私もお話会に参加してみて、「ここでなら話せる」という感覚を味わった一人です。赤ちゃんを亡くすという同じ経験をした者同士でしかわかりあえないものは確かにある。

でも、わかりあえるはずだと過大な期待をするのは、ますます心の傷を大きくする危険性もあるのではないでしょうか。
よそではわかってもらえなかった分、「ここでなら」「この人になら」と、「自分と同じはずだ」と、思いたくなるけれど・・・。

 

同じだと思い込んでしまうと、亀裂が生じるのです。

例えば、ご夫婦の間で、パートナーの悲しみの表し方が自分とは違うということから不信感が芽生え、関係が冷えていく・・・というのは、よく聞く話です。同じはずだと思っているから、自分とは違う反応に接したときに、裏切られたように感じてしまうのです。


どんなに近しい間柄であっても、人間はそれぞれ違うんですよね・・・。

 

◆◆ 違いを超えて、支え合う ◆◆

 

こんなふうに言ってしまうと、「この苦しさは誰にもわかってもらえない」と心を閉ざしてしまっている人にとっては、追い打ちをかけるような感じに聞こえてしまうかもしれないのですが、そういうつもりではないんです。

 

経験したことも、感じたことも、考え方も、それぞれ違う。
だけど、その違いを認識してこそ、違いを超えて私たちは繋がり、いたわり合うことができるはずだと、私は信じています。

「人は誰もおなじではないんだ」というところから始めてこそ、確かな絆を作っていくことができるのではないでしょうか。

希望を捨てず、期待しすぎず、暖かい関係を作っていきたいと願います。


 

「Grief Unseen」では、「違いがある、けれどつながっていく」ということに、挑戦したアート・プロジェクトについて述べられています。そこを次回、ご紹介していきますね。

 

 

 

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